SPL: 懐疑論思想チップセットのベンチマーク・テスト | |
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【2008年11月27日】 環境問題となると神経質になるバカが見落としていること1つ |
◆現在生きている人びとが天然資源を使いまくった場合とアホみたいに節約した場合とでは、未来に生まれるであろう個体が異なる。 ⇒環境問題喧伝バカは生まれ得ない対象を心配するというわけの分からない行為をしている。 ※しかもこの事態は、複雑系理論が正しかろうと、非決定論が正しかろうと成立してしまうという、環境問題喧伝バカにとって悪夢のような事態である。 |
【2008年11月22日】 借金返済の拒絶 |
「借金漬け」にして、金銭を可能な限り搾取するという行為が横行しているが、なかにはこれについて「借りたものを返さないのが悪い」という言説を用いる者がいる。しかし、一般に借り物を返す際、その借り物の量を増加させて、あるいはその借り物以外の何かを付加するということはない。ということは、借金の元本を返済していれば、「元本=借り物」以外に、「利息を支払ったり=借り物の量を増加させたり」、そのほかの何らかの名目の金銭を渡したりする必要はないのである。 実際、消費者向け金融業者は「法外な金利でも借りる人は増えるだろう」と言っている。つまり、自分たちがやっていることは「法外」であると認識しているんだから、法律が入り込む余地はない。このことからは、元本すら返済する必要はないということが帰結し得る。 |
【2008年11月22日】 旧時代の遺物の発掘:ある阿呆 |
「踊る阿呆に、見る阿呆。同じ阿呆なら、踊らにゃ損!損!!」という歌があったと思うが、私の感覚では、踊ったほうが疲れると思うので、踊ったほうが損という立場になる。 しかし、踊るという行為を運動と捉えて、メタボリック・シンドローム(metabolic syndrome)などの疾病への対抗策とするならば、やはり踊らなければ損であるということになるか。 これに対しては、血圧が高い場合、その他の事例においては、踊ると死ぬ危険性があるので、踊ったほうが損であるという短期的視点からの反論と、その踊りが毎日、あるいは少なくとも頻繁に開催されない場合、それ以外で運動しないならばあまり効果はないという長期的視点からの反論が考えられる。 つまり、場合によって異なるから一般論にするのは無理があるという主張である。 ところが、万人が死ぬことを忌避しているわけではない可能性があるため、この主張も相対化され得ることになる。 それじゃあ、ということで、死ぬ以外にも病状が悪化する危険性があるという項目を追加したらどうかという声もあるかもしれないが、これについても病状悪化を忌避しない者がいないとも限らないのではないかと思う。 他方、先ほどの反論のうち後者、すなわち長期的視点からの反論についてはたしかにいくらかは納得のいくものであるが、しかし身体の機能だけに固執している点で視野狭窄と言うべきである。 結局、この問題は難しいので、差し当たっては各人のかってということにしたほうがよいかもしれない。 いや、そもそも、「踊る」と「見る」という2つの立場以外にもさまざまな立場があり得る。たとえば、「踊らない、かつ見ない」という立場がこれに当たる。 そして、この立場はさらに細分化されるのである。 よって、最初の言明が不適切なのであり、阿呆なのはほかならぬ件の言明を行った者である。(対立する2つの立場以外にも何らかの立場があり得る、あるいはそもそもその2つが対立していないにもかかわらず対立していると思い込み、その2つの立場で二元論を形成し、それ以外に立場がないと迫る独断野郎に危うく騙されるところであった!) |
【2008年11月10日】 裁判員制度に対する各種各様の期待 |
2ちゃんねるの裁判員制度についてのあるスレッドに以下の書き込みがあった。
363 :傍聴席@名無しさんでいっぱい:2008/11/09(日) 16:23:49 ID:C12d8RYS0しかし、「おれみたいな最悪な人間一杯居る」というのは憶見であろう。 (1) 「おれみたいな最悪な人間一杯居る」という文からは「おれは最悪な人間である」という文を抽出することができる。 (2) 最悪とはもっとも悪い何かである。 (3) もっとも悪い何かは質的に1つしかない。 (4) 質的に1つしかないにもかかわらず量的に1つでないならば、それらは同一である。 (5) 同一であるとは関係性ではない。 (6) したがって、それらは量を除くすべてについて一致していなければならない。 (7) >>363と同一であるもの/ことは>>363をおいてほかにない。 (8) それゆえ、「おれみたいな最悪な人間一杯居る」という命題の真理値は偽である。 反 論 上の議論が正しいとすると、たとえばこの世界のレモンは少なくとも品種が1つでなければならない。しかし、実際はそうでない。それゆえ、上の議論は誤っている。 残された問題は、いかにして各種各様の人間が最悪であると決定されるのかというものである。 |
【2008年10月23日】 怪談に付随する欠陥 |
「ある話を聞いたり、読んだりしてから1週間以内において、寝る際(寝ているときを含む)に布団から足を出すと死ぬ」という怪談があるが、私はこの怪談に接触した約2日後にその致命的な欠陥に思い至った。それは、その言明が真であったとしても、「布団を被らなければ容易に防止することができる」というものである。布団を被るという場合の布団は一般に掛布団であるが、敷布団は使用しても掛布団を使用しない、あるいは抱き枕として使用するという状況は十分にあり得るのである。 さらに、布団以外のものを被るという選択をすることによっても死という帰結を防せぐことができる。 したがって、ここで問いが生じることになる。睡眠をとっている際に足が出た場合に死ぬという現象が布団を被って眠るときのみであるのはなぜか。(原因ならびに/あるいは理由への問い)また、どのようにして、睡眠をとっている際に足が出た場合に死ぬという現象が布団を被っているときにのみ成立するのか。(仕組みへの問い) 真であることと、真であると論証できること(さらに言えば、真であると信じること)を区別することができるならば、上記の問いに対して答えを与えることができないというのは、冒頭の言明が成立しないことの論理的根拠とはならないであろう。しかしながら、論証なしの言明(ここでは「ある話を聞いたり、読んだりしてから1週間以内において、寝る際(寝ているときを含む)に布団から足を出すと死ぬ」)に対しては、それとは異なるが、それと同じく論証を伴わない言明(たとえば、「ある話を聞いたり、読んだりしてから1週間以内において、寝る際(寝ているときを含む)に布団から足を出したとしても死なない」)で応答することができるのである。 |
【2008年9月26日】 「非科学」批判は非科学的価値に支えられて成立している、という非科学的言明の支持 |
「35歳以上の妊婦の羊水は腐っている」という言明が、論理的観点からではなく、政治的観点から攻撃されているが、その言明を「35歳以上の妊婦の羊水は腐っている可能性がある」と言い換えた場合においてなお攻撃するならば、おそらくその者の頭は弱い。 可能性概念は様相論理学という(私にとっては)難しい学問の下で論じられる主題の1つなので、取り扱うには慎重を要するのである。(様相実在論/可能世界実在論が誤っているにしても!) |
【2008年9月25日】 「雑誌のカラー」問題 |
各漫画雑誌にはおのおのの「カラー」があると言われるが、この命題が真であるというのは疑わしい。漫画雑誌の「カラー」というのものが「その漫画雑誌に掲載されているすべての漫画に共通する項」であるならば、「カラー」が成立しているという状況は次の2種類を想定することができる。 (a) 創刊時にあったとされるカラーが変化していない場合 この場合、その漫画雑誌は時勢などの影響をまったく受けず、したがって創刊時の特徴から変化しないのでなければならないが、そのような漫画雑誌がこれまであっただろうか? (b) 創刊時からカラーが1回以上変化している場合 これが成立するには、その漫画雑誌の古い作品が一斉に終了し、その次の号から新しい作品が一斉に開始されねばならない。なぜならば、古い作品が1つでも残っていてなお1つのカラーで統一されている場合、新しい作品は古い作品と同一のカラーを有していることになり、したがってカラーが創刊時から変化したとは言えないためである。 |
【2008年9月18日】 無限という概念に潜む問題に無頓着であるという事例の典型 |
「一度あることは二度あり、二度あることは三度ある。」ならば、「三度あることは、四度ある。」はずである。すると、次のことが帰結する。 「一度あることは無限度ある。」 しかしながら、死後の世界というものがないならば、すなわち人は一度死ぬことによってそこでその人のすべてが終わりになるならば、その人が経験するあるできごとが無限度繰り返されるということはない。したがって、「一度あることは二度あり、二度あることは三度ある。」という命題の真理値は偽である。 ただし、この議論には2つの前提が独断されている。1つは、肯定的背理法(「PならばQ」と「Qでない」から「Pでない」を導き出す、もしくは「QでないならばPでない」=「PならばQ」の対偶と「Qでない」から「Pでない」を導き出す推論規則)が正しいという前提であり、もう1つは、三浦俊彦が示唆した確率論的輪廻転生(『多宇宙と輪廻転生−人間原理のパラドクス−』を参照)が生じないという前提である。(肯定的背理法を独断的に前提するのが問題なのは、その規則に二値論理が含まれるためである。多値論理は行き過ぎであるにしても、真と偽に真偽決定不能を加えた三値論理が正しいという可能性の検討を要するであろう。) また、そのできごとが三度で終わる論理的根拠がある可能性についても無視されている。(もっとも、これまでその命題を主張してきた者には論証し得ないであろうが。) ところで、あるできごとが同一であるとは何が同一であるのか。たとえば、段差に躓いて転びそうになるというできごとが二度起こるというとき、直感的にはその文を分かったつもりになってしまうが、一度目と二度目の「段差に躓いて転びそうになるというできごと」は本当に同一のできごとなのか。少なくとも、すべてにおいて同一ではあるまい。(なぜ転びそうになったか、どのように転びそうになったか、転びそうになる度合い等々) |
【2008年9月16日】 言語と論理の問題 |
「合わせ鏡」という降霊術があるらしい。それは以下のようなものである。
鏡を4枚と蝋燭を一本準備して下さい。私はこの種のことに影響されやすいという認識を持っているが、それでも直ちに問題になる表現に気づいた。「真上」、15cm「程度」、「正方形」、「東西南北」、「12時46分」、「真ん中」、「とても怖いもの」等々……。 これらについての真理が判明しない限り、(文字通りの合わせ鏡ではなく)降霊術としての「合わせ鏡」が上記の形で実在するという命題が正しいとは言えないであろう。 |
【2008年8月17日】 いわゆる左翼の誤謬 |
インターネット上でネット右翼なるものを攻撃している者が左翼であるとするならば、左翼が誤っているのは他国の(ネット)右翼の言動を無視している点である。右翼的言動なるものが悪であるならば、それが自国のものであるか他国のものであるかにかかわらず悪であると考えねばなるまい。(わが国における右翼/左翼の分類法は誤っているとの指摘もあるため、「なるもの」という表現を使用した。) なお、この反対の議論、すなわち「ネット右翼が誤っているのは他国の左翼の言動を無視している点である」という議論は成立しない。なぜならば、右翼という語には、独身者が結婚していないことを含意するのと同様に、自らが属する国家のみを対象とすることが含意されているためである。 |
【2008年8月15日】 類推返し |
「火のないところに煙はたたない。」という類推があるが、私はこれに対抗する類推を思いついた。それは次のものである。 「湯煙という反例によってその命題の誤謬が暴露されるのである。」 「火のないところに煙はたたない。」という類推の信奉者は頭が弱いので、この類推が類推返しであることを理解し得ないであろう。 類推返しとは、対象となる類推が誤っていることを類推を用いて皮肉を提示する行為なのである。 【参考文献】 『「知」の欺瞞 −ポストモダン思想における科学の濫用−』 『アナロジーの罠 −フランス現代思想批判−』 |
【2008年8月15日】 抜き打ち試験のパラドクス |
「呪いのゲームをプレイすると、一週間以内に死ぬ。」という言明は成功するだろうか? 仮に本日(西暦2008年8月15日)にプレイしたとしよう。 すると西暦2008年8月22日には死ぬことができなくなる。それは、「一週間以内に死ぬ」という言明には「プレイ後一週間のうち、いつ死ぬか分からない」という言明が含まれていることから、8月22日を迎えて死んでいない場合には8月22日に死ぬことが確定し、したがっていつ死ぬかということが判明するからにほかならない。 ということは、いわば抜き打ち死の最終日は8月21日になる。 ところが、8月21日においても、先述した8月22日と同様の事態に陥る。そしてこれを繰り返していけば、とうとう死ぬことができなくなる。 したがって、「呪いのゲームをプレイすると、一週間以内に死ぬ。」という言明は偽であるという結論が得られるのである。 |
【2008年8月15日】 オースティンによる『BLEACH』論駁 |
(1) 一番隊隊長は、三番隊隊長の特定の行為について、「命令なしの単独行動」であると指摘した。(第10巻第82話) (2) 一番隊隊長は、三番隊隊長の同一の行為について、「標的を取り逃がすという、隊長としてあるまじき失態」であると指摘した。(第10巻第82話) (3) (1)と(2)より、一番隊隊長の言明からは、三番隊隊長には自身の行為の責任があるという考えが帰結する。 (4) 一番隊隊長は、三番隊隊長に対して、「(1)と(2)について弁明があるならば、弁明せよ」という趣旨の言明を行った。(第10巻第82話) (5) 「弁解の弁」におけるJ.L.オースティンの分析によれば、弁明とは、ある行為の責任は認めるが、その行為が悪であることを是認しないことである。 (6) 責任があると述べているにもかかわらず、弁明を求めるという行為は、新しい情報が加わらないため、意義がないと言える。 ↑弁解を求めた場合には、「……。以上より、○○には責任がある」→「弁解はあるか」→「いいえ、責任は私にあるので、弁解の余地はありません」/「〜であるため、私に責任はない」という流れをつくることができる。 ※弁解……ある行為が悪であることは認めるが、その行為の責任を認めないか、認めるとしても一部しか認めないこと。 |
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:普通自動車免許学科における不誠実な教条主義の批判 |
私は、普通自動車免許を10時間超過で取得して以来のペーパードライバー(厳密には、1度だけ助手席に乗ってもらって、指示をもらいながら小売店まで運転したことがある)で、ペーパードライバー歴は約1年7ヶ月になるが、「「だろう」運転ではなく、「かもしれない」運転をしなければならない」という教義について、教官に教えられてからというものずっと引っ掛かりを覚えている。 なぜならば、その言明は、「「飛び出してこないだろう」といった考えを断罪し、「飛び出してくるかもしれない」と考えなければならない」ということなのであるが、「かもしれない」という表現は「可能性がある」という表現に置き換えられるため、「飛び出してくるかもしれない」は「飛び出してこないかもしれない」とセットになり、したがって「かもしれない」運転が「飛び出してこないかもしれない」をも含意せざるを得ないからにほかならない。 それとは反対に、「飛び出してこないだろう」も「飛び出してくるだろう」とセットになっていることは言うまでもない。これらのことを考えるならば、先に挙げた標語はどうにも納得できないところがあるのである。 このことに限らず、本人は「うまいことを言ったものだ」とでも思っているのかもしれないが、バカが考えたところで上のように論駁されるのであるから、省略などせずに、実直に標準的な教え方をしていればよいのだと思う。 |
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:翻訳の不確定性 |
「お金で買えない価値がある。買える物は"MastarCard"で。」という言明があるが、これは誤りではないか。 というのは、私は、あの言明の前に、あるいはあの言明とともに表現されている映像によって、「MasterCardを使用して各種の商品を購入した結果として、ある価値が醸成された」ということを暗に訴えかけていると受け取っているのであるが、これが広告主あるいは広告代理店の意図するところと一致しているかどうかはともかくとして、意味的に適切である場合、その価値というのはお金で買っていることになるためである。(購入の際には貨幣の取引は生じないが、後々銀行口座から貨幣が引き落とされることになる。) また、同じテレビ広告では「プライスレス」("priceless")という語が使用されている。これについての「価値がないということなのに云々」との突っ込みに対して、嬉々として、"priceless"は「非常に高価な」、「価格が付けられないほど貴重な」という意味であるという趣旨の、見下した返答をする者がYahoo知恵袋辺りにいるが、誰かこの種のアホに翻訳の不確定性テーゼを教えてやったらどうだ?(もっとも、"priceless"に突っ込みを入れる者もまた、標準的に採用されている翻訳法に則っているという点では、件の説教バカと同じ問題を抱えているのであるが。) |
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:「私が言うことを10回繰り返してください」 |
◆質問についても鸚鵡返しをする場合 α「チキン」 ω「チキンチキンチキンチキンチキンチキンチキンチキンチキンチキン」 α「鳥を英語で言うと?」 ω「鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?」 ◆最初の段階で鸚鵡返しをする場合 α「私が言うことを10回繰り返してください」 ω「私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください」 なお、「私が次に言うことを10回繰り返してください」という言明が行われた場合には、「私が次に言うことを10回繰り返してください」という言明の次の言明のみを10回繰り返して、それ以降の言明にはすべて1回しか返答しないという手段を採用することができる。 |
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:ゆとり教育批判の批判 |
私は、ゆとり教育について、(1)実施期間から考えて成果を提出できる状況ではない、(2)ゆとり教育に反対する人びとが協力的でなく、場合によっては妨害している可能性がある(多数派が必死になって足を引っ張っているという事態を超克するのはきわめて困難であると思われる。これに対しては「失敗したから反対するのである」という反論があるが、初めから偏見、ここでは否定的な態度があったという可能性は拭い去れない)、(3)政策段階が正しいとしても、それ以降、すなわち戦略、戦術、実施の各段階において有効策を講じることができていないのではないかと推測している。 また、日本国内における通時的な、あるいは各国間の通時的な教育水準の比較において、現在の日本国のそれが低下してきているということが正当化されるものであると仮定しても(誤った調査の方法によってそのような結論が得られているということも考えられるため、その調査に根拠を置くならば、検証は必要である)、ただゆとり教育のみに要因を負担させることができるのかという疑問もある。 さらに、何が教育を評価する指標として正しいか(ゆとり教育の弊害を語る際に無批判に採用している前提に独断はないか)、過去を基準にする仕方は正しいかということも問題である。 なお、「これがゆとり教育世代か」という言葉を吐く者は対象を蔑視する際にいわゆる常識というものを基準に判断することがあるが、これはゆとり教育とは関係がない。(なお、常識の価値を論証なしに絶対化することにも問題がある)さらに、実践上の問題として、「ゆとり教育世代」言説を弄する者にそうする資格〔学力、常識〕があるのか(2ちゃんねる的表現を用いるならば、ブーメランになっているのではないか)、あるとしてそれはいつの時代にもいると思われる上位集団に属しているからで、そもそも比較する対象を誤っているのではないかということになる。(共時的にも天才や秀才と凡人やそれよりも下位とは差があるのだから、通時的観点から前者と後者の差があることを言い立てたところで無意味である。) |
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:共生志向の欺瞞 |
共生志向あるいは共感志向は、他者=異質な存在を排除するという前提がなければ成立しない。そこには、最初から排除を見て取ることができるのである。 たとえば、イスラムに対する嫌悪感や忌避感が漂っているなかで、イスラム文化を理解しようと呼びかける者はその好例である。彼らは、「理解」しようとしているのではなく、「取り込もう」としているというのが実情である。 すなわち、共生あるいは共感を志向する者は、見かけ上は自らが属する領域の外にある存在を受容しているが、実際には、自らの領域を基準としたときに異質と映るものを正常なもの=自らの領域と同質なものに変換することによって受容している、あるいは対象を恣意的に分断したうえで、その一部を受容している〔理解する努力をした結果、理解することに成功したものは受け入れるが、そうでないものは排除している〕に過ぎず、したがって結局は最初から不寛容な人びとと大差ない。むしろ、社会的な批判を回避し得ている点で性質が悪い。(むろん、受け手、すなわち共生志向を批判する必要はないという信念を持っている者にも問題はある。) こうしたことから分かるように、グローバリズムは原理的にムラ社会と同質である。異なるのは排除する時点のみである。 そこで、共生=共感志向では、その原理を機能しないようにする、つまりムラのソトをつくらないようにすることを目指す。これは、実際にソトがない(という妄想を共有している)ならばムラもないということになるというプラグマティックな論法である。 しかし、原理的にはソトは付いて回るため、共生志向の世界観は彼らが批判するムラ社会と同質なのである。たとえ、共生=共感を志向する者の望みが完全に実現したとしても、排除の原理は、排除する者が存在しないために機能していないだけで、成立はしているのである。 なぜ、こうしたことを個人の信念において正しいとするだけでなく、それが正しいことを絶対化することができると考える者が、道徳的規範に依拠したり、他者を自己中心的であるとして批判することができるのであろうか。 |
【2008年8月15日】 平等の実現可能性 |
「機会の平等は善い平等であるが、結果の平等は悪い平等である。」という趣旨の言明があるが、私の感覚では機会の平等が実現し得るとは到底思えない。そのように思う理由は以下に示すとおりである。 ◆平等の条件 (a) 実在論が正しい場合→実際に容貌や性格や能力などのすべての性質が人類間で同一であること (b) 反実在論が正しい場合→容貌や性格や能力などのすべての性質が同一であると各人が各人について(認識せねばならないという意識ならびに無意識を抜きにして)認識すること (c) 第3の可能性→実在論的見解か反実在論的見解かにかかわらず、各人が各人に対して(等しく接しなければならないという意識ならびに無意識を抜きにして)等しく接すること なお、上で実在論が正しい場合には、同一とは関係ではないという点を考慮するならば、人類が同一であるためには人類が1人でなければならないということになるが、人類は1人で構成されているのではないため、人間社会で平等は実現しないということが帰結するのである。 |
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