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理由と原因と責任の混同
  法廷に限らず、「あなたが〜した、あるいは〜という状態になったのはなぜか」という質問をしておいて、彼が「……だから」と、自身の感覚や感情といった心理的根拠を示したことを受けて、「○○のせいにするのか」と責め立てる行為には、被質問者の回答が原因を提示したものと解釈するバージョンと理由を提示したものと解釈するバージョンの2種類があり、そのいずれにも2つの混乱が見られる。
  これは原因概念自体の困難性にも依拠しているが、原因の探求というものが困難である以上、寛容の原理に基づくならば、冒頭の質問文は、原因ではなく理由を問うものであると解釈するのがより適当であろう。すると、「○○のせいにするのか」という言明が原因バージョンの解釈である場合には、彼は理由を原因と取り違えているのである。そのうえでさらに、原因が責任と同一視されている。他方、「○○のせいにするのか」という言明が理由バージョンの解釈である場合には、彼は論理的根拠と心理的根拠を混同している。被質問者による回答は、心理的根拠の提示であるにもかかわらず、質問者はそれを論理的根拠と見なしたのである。加えて、こちらの解釈の場合においても論理的根拠が責任と同一視されている。


  原因と責任は同一であるとする見方が誤っているのは、その見方を採用するならば「〜を原因と考えること」が「〜に責任転嫁すること」になるが、その場合、自然科学における探究はすべて責任転嫁になってしまうことから分かる。(そもそも、原因と責任を同一視する立場においては、原因は悪である、もしくは悪であってはならないという前提が無批判に採用されている可能性もある。)
  他方、論理的根拠と責任は同一であるとする見方が誤っているのは、簡単な三段論法(「AはBである」+「BはCである」→「AはCである」)を例にとって見れば分かる。
  こうした言明を受けて、それでは心理的根拠は責任と同一視できないのかと思う者もいるかもしれないが、冒頭の被質問者が述べたような心理的根拠は、質問に対して単に自身が当該行為をしようと思った、もしくは実際に行った経緯や動機を(自らの意識する限りにおいて)示しただけであり、責任とは異なっている。




  補  遺


  『地獄少女』というアニメに、妻に経済的に楽をさせるために仕事に精を出し、子どもが生まれてきて以降はさらに努力に勤しむ男が登場した。ところが、妻は寂しさのあまり他の男と性交することになる。その場面を目撃した男は妻を許容せず、「やり直したい」という妻に対して「裏切り者を信じることはできない」という趣旨の返答を行う。そして妻は車に乗り、男の下を去るのであるが、いくらか車を走らせたところで電柱に激突し、死亡するのであった。車が何かを衝突する音を聞きつけた男がその場所まで赴いたときに述べた言葉が、「俺のせいじゃない。俺は悪くない。」というものであった(と思う)。
  これを見たときに、まず思ったのは、男が妻に向けて放った言葉は果たして上記の交通事故の原因となっているのか、そしてそうであるとすれば原因とはいったい何であるかということである。というのは、妻が、「自動車の運転技術に相対的に未熟」で、「雨の降っている」「夜〔暗い場所〕」、しかも「住宅街のような狭い道」を運転するのは、「自動車の運転技術に相対的に習熟しており」、「晴れた」「昼〔明るい場所〕」、しかも「視界の開けた場所」を運転するよりも事故を起こしやすくなるからである。また、「男の言葉に動揺した」ということを根拠とするにしても、それが原因ならば男がその言葉を述べるに至った原因を想定することができないであろうか。つまり、なぜその男の言葉を何の論理的根拠もなく開始地点に設定することができるのかということである。たとえば、「妻が他の男と性交したこと」、もしくは「妻の肉便器性」が「男の言葉」の原因となっているかもしれない。そして、「妻が他の男と性交したこと」の原因は「男が勤労のために妻を放ったらかしにした」(ただし、仕事以外ではできるだけ妻と行動をともにしているということを一般に思わせるような描写がなされていることに注意してもらいたい。)であるかもしれない。こうしたことを続けていけば、いくらでも原因を遡っていくことができる。(とは言え、現状の人の能力には限界があるだろうから、どこか、たとえばビッグバン当たりで止まってしまうかもしれないが。)
  「男が妻に向けて放った言葉は果たして上記の交通事故の原因となっているのか」という疑問を持つことになったもう1つの感覚は、「男の言葉に動揺した」というのは原因ではなく、理由と呼ばれるものである可能性があるというものである。いずれにせよ、原因というのが、『地獄少女』において行われたように、場面ごとでぶつ切りにして語れるものであるのか、それとも私が示唆したように、どこまでも辿っていくものとしてあるのかということ、またそのどちらの場合においても、原因と結果が常に一対一対応しているのかということが問題である。
  次に、責任についてであるが、「俺のせいじゃない。」という文が「俺の責任ではない」という文に置き換えることができるものとすれば、それに対して主人公が述べた「〜(〜はその男を指示する)のせいである」という趣旨の言明は「〜の責任である」ということになる。このとき、原因が辿っていけるものであるとするならば、なぜその男に妻の交通事故の責任が生じるのであろうか。もっと言うならば、原因が辿っていけるものである場合、その男に交通事故の責任があると考えることは、その男にその行為を生じさせた責任が他者、究極的には大本である何か(ビッグバン?)に責任があると考えることになる。果たして大本の何か(ビッグバンか何か)に責任が帰せられるのか。そもそも責任という語には他者を責め立て、そしてそのことを許容するものであるというのが一般的な印象であると思われるが、そこには独断が潜んでいるのではなかろうか?(たとえば、「責任という概念を放棄すれば人間社会が成り立たない」と言う場合には、その背後に「人間社会が成り立たなければならない」という独断を見て取ることができる。)
  あるいは、『地獄少女』における件の例は、あくまでも一場面を切り取って原因もしくは責任を追及しているだけであると言う場合には、なぜわざわざその一場面を切り取る必要があったのかと問うことができる。(これに対して、「それでは『地獄少女』という虚構作品が成り立たないといったようなメタ的な批判は的外れも甚だしい。『地獄少女』の例が不適切であると言うならば、同様の行為〔責任追及〕がこの世界でも頻繁に生じているのであるから、そちらで考えてもらってもよい。)

更新日 2008年8月14日
作成日 2007年2月21日



関連項目

A 懐疑論とその限界
A 論理の重要性についての1節