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予言の独断的前提
  予言というのは決定論を前提しているが、決定論は正しいか、正しいとするならばそれはどのようなものか〔どのような決定論が正しいか〕ということに対して絶対確実に正しい回答を与えない限り、そうした問題の上に成立している問題を議論をしても空虚である。
  なお、現時点では一階述語論理より先の論理は絶対確実に正しいかどうか分からないとされている(と思う)ので、数学でさえ絶対確実に正しいとは言えない。(これは、数学が今後も絶対確実に正しいと言えるようにはならないということではない。あくまでも暫定的な言及である。)
  補足するならば、数学で用いられる公理のすべてが絶対確実に正しいかどうかが最大の問題であるが、絶対確実とされている演繹(という過程もしくは関係性)にも問題がある可能性はある。それは、演繹という日常言語とまったく独立にその指示対象を取り出せるかという問題である。(ということは、命題論理や一階述語論理も隘路であるかもしれない。)つまり、実在論と反実在論(ただし観念論だけに限定されない)のいずれが正しいか、もしくは真偽未決かということである。
  この議論ではある可能性が見落とされていると思われた者もいるかもしれない。その可能性とは、一階の絶対確実性などというものはなく、ただ二階の絶対確実性があるのみであるとする立場の可能性である。これは、言い換えれば「いかなる科学理論の正しさもある特定の時点で固定化されることはなく、それらは改訂され得るのであるが、そうした過程こそが絶対確実に正しい」ということである。しかし、私は上記で、その立場が絶対確実に正しいかということも問うているのである。


――予言なんて簡単だよ。太陽系第三惑星上の生命はグレゴリオ暦2999年12月31日に消滅するか、しないか、そのいずれであるかが未決であるかのいずれかである。ほらね?

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作成日 2007年12月23日



関連項目

A 懐疑論とその限界
A 論理の重要性についての1節
B 実践上の矛盾を巡って
B 懐疑論と虚無主義
C 意図と指示