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SPL: A.D.2008-08

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【2008年8月26日】 「(笑)」の用例 −分析哲学者、論理学者、数学者に−
フランス哲学(笑)
フーコー(笑)ドゥルーズ(笑)デリダ(笑)ラカン(笑)ジャン=リュック・ナンシー(笑)
ディスクール(笑)生の権力(笑)『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(笑)SM用具(笑)ノマド(笑)リゾーム(笑)器官なき身体(笑)脱領属化(笑)脱構築(笑)差延(笑)反・音声中心主義(笑)『有限責任社会』(笑)精神分析(笑)マテーム(笑)鏡像段階(笑)シェーマL(笑)


東洋思想(笑)
ゴータマ・シッダッタ(笑)ナーガールジュナ(笑)石飛道子(笑)荘子(笑)
四諦(笑)空(笑)インド論理学(笑)無為自然(笑)
【2008年8月25日】 DQNを討つために
  すでに2ちゃんねるで行っているが、このウェブサイトにおいてもDQNとの戦闘におけるわが装備を披露しておく。


◆右手:ZETT社製金属バット・2008年新庄モデル(紅)
◆左手:催涙スプレー
◆頭:対ガス用マスク
◆体:ハート級脂肪
◆腕:ヒートテック手袋
◆脚:すこぶる健康コンフォート(茶)
◆装飾:懐疑論思想チップセット
◆袋:スタンガン・通常タイプ,棒状スタンガン


  スキル<DQNパズル>を使用し得ないのがこの兵装の欠点である。しかし、そのデメリットを補って余りあるのが「懐疑論思想」チップセットであり、これは「ある判断の再解釈や無効化」を可能とする装備である。(たとえば、第三者が私を見てダメージを負っていると判断した、実在論的に言い替えるならば、DQNの攻撃が私を負傷させたとしても、「いや、そのような判断は独断である」と考え、先の判断を打ち消すことができる。)
2008年8月17日】 いわゆる左翼の誤謬
  インターネット上でネット右翼なるものを攻撃している者が左翼であるとするならば、左翼が誤っているのは他国の(ネット)右翼の言動を無視している点である。右翼的言動なるものが悪であるならば、それが自国のものであるか他国のものであるかにかかわらず悪であると考えねばなるまい。(わが国における右翼/左翼の分類法は誤っているとの指摘もあるため、「なるもの」という表現を使用した。)
  なお、この反対の議論、すなわち「ネット右翼が誤っているのは他国の左翼の言動を無視している点である」という議論は成立しない。なぜならば、右翼という語には、独身者が結婚していないことを含意するのと同様に、自らが属する国家のみを対象とすることが含意されているためである。
【2008年8月15日】 「2次元」的虚構作品に対する5つの態度
  私は、アニメ、キャラクター小説、コンピューター・ゲーム、漫画、人形、アニメやコンピューター・ゲームに関する音楽(これらを便宜的に2次元的虚構作品と呼ぶことにする)に対する諸態度のなかに許容することのできないものが1つだけある。
  それはファッション化である。このファッション化には、特にアメリカ合衆国や西ヨーロッパ諸国の住人によるものと80年代スノビズム的なもの(と言っても、80年代のことはよく知らないのですが)とがある。しかしこれは、「クール」の逆を目指すという表明ではない。そうではなく、「カッコいい―ダサい」という二元論的基準からの脱却を目指しているのである。
  反対に、私が許容できるものは、(1)分析派(一定の距離を取って批評的に見る仕方で、仕草などの細部を問題にすることもある。知識階層崩れによって構成されており、平均的な人と比較してかなり多くの学術的情報が蓄積されており、またそれを分析に利用することができる。)、(2)憧憬派(登場人物に憧れる。幼稚園児や小学生のような小さい子どもによるものと中学生や高校生のような大きい子どもによるものとに細分化される。)、(3)感傷派(物語重視型の18禁ゲームなど、周囲から見ればお手軽なものをすばらしいと感じる。)、(4)性欲派(淫乱肉便器との性交、およびそれを含めた日常生活を求める。)、(5)萌え派(「かわいい」=非性的萌えを追求する。)の5つである。
  なお、私は、(2)→(3)→(4)と渡り歩いてきた。(1)のことは何となくしか理解することができない。(最近では、彼らが分析のために用いる道具に、文化学、政治学、経済学、社会学の大部分、歴史学、基礎心理学、精神分析学といった、私が煩雑さを感じる学問を用いていることに気づいたため、忌避している。)(5)については、無節操に「萌え」という語を使用することには嫌悪感を生じてしまう。(見下した使い方よりもむしろ非常に軽い感じで、あるいはちょっとした流行に乗った感じで使用することに違和感がある。)
【2008年8月15日】 虚構作品の評価にまつわる1つのテーゼ
  「最初に原作に接触し、それに対する評価が高い場合、非原作に対する評価が低くなる傾向性がある。」
  これは、ある作品の選好度と別の表現形式におけるその作品の受容性との関係についての仮説である。


一般的な根拠
(1) 物語の大筋や世界観をすでに知っている。
(2) 原作に対する強固なロイヤルティが形成されている。


特殊な根拠
(a) 制作面で各種の無理な要求をされている。(金銭、日数、人員など)
(b) その作品は、受け手が原作の表現形式の場合においてのみ魅力を感じる種類のものである。
(c) 制作者の表現方法が時流と一致していない。
(d) 原作に対する制作者の思いが弱い。
(e) 実在論的にみた原作の世界を制作者が把握し切れていない。
2008年8月15日】 18禁ゲーム・マトリクス
                  直接的
 ┌─────────────────┬─────────────────┐
純│                 │                 │顕
愛│純愛を前面に打ち出しているゲーム │強姦的/凌辱的なゲーム      │在
改│                 │                 │化
め│『水夏〜SUIKA〜』      │『牝奴隷−犯された放課後−』   │さ
間│                 │                 │れ
接├─────────────────┼─────────────────┤た
的│                 │                 │性
自│全体的に重い雰囲気のゲーム    │淫乱さを全面に打ち出しているゲーム│欲
己│                 │                 │・
愛│『羊たちの憂鬱』         │『マジカルウィッチアカデミー』  │支
 │                 │                 │配
 └─────────────────┴─────────────────┘欲
                  間接的





  解  説


  横軸には恋愛の型をとり、縦軸にはその直接性あるいは間接性の程度をとる。第1象限は、性欲と支配欲を重視しており、かつそれが直接的に表現されるため、強姦を扱うことになる。この領域は、18禁ゲーム、ひいては恋愛の根源である。次いで、第2象限は、間接的自己愛を重視しており、かつそれが強調されるため、性欲の現れが抑えられ、物語が重視されることになる。そして、第3象限は、第2象限と同じく間接的自己愛を重視しているが、その程度がより低く設定されており、相対的に淫猥さが上昇することになる。最後に、第4象限は、第1象限と同じく性欲と支配欲を重視しているが、その現れが間接的であるため、単純に淫靡なもの、あるいは凌辱の形式を採用していたとしても、対象がそれを受容しているという内容を扱うことになる。
【2008年8月15日】 思考と論理
  たしか、野矢茂樹が『他者の声 実在の声』において、論理的思考という語に違和感を表明していた。その理由は、思考というのはある地点から別の地点へ移行することであり、その移行には飛躍が付きまとうと考えるためである。論理が登場するのは新たな地点に至った後のことである。彼は、論理は、飛躍の過程を他者に示す、言い換えれば説明するために用いられるものであると言う。
  これは私の感覚と一致する。私は、感覚からの出発や、おそらく無意識のうちにある問題意識(を言語化し得ない状態)にもどかしさや苛立ちを感じていることが前提にある、突然の思いつきを行っている。このウェブサイトにある文章はすべてがそうであると言ってもよい。そして、そのうちの正当化しているものについては論証しようと試みたのである。(それ以外、したがって大部分の文章は感覚や感情によっているので、受け流したり、同じく感覚や感情からの反論を行ったりしても構わない。構わないなどと、私が上からものを言うことでもないが。)
  なお、伊勢田哲治の『哲学思考トレーニング』では論理の検証機能が主張されているので、論理の眼目は議論の説明と検証であると言うことができると思う。
【2008年8月15日】 類推返し
  「火のないところに煙はたたない。」という類推があるが、私はこれに対抗する類推を思いついた。それは次のものである。
  「湯煙という反例によってその命題の誤謬が暴露されるのである。」
  「火のないところに煙はたたない。」という類推の信奉者は頭が弱いので、この類推が類推返しであることを理解し得ないであろう。
  類推返しとは、対象となる類推が誤っていることを類推を用いて皮肉を提示する行為なのである。


【参考文献】
『「知」の欺瞞 −ポストモダン思想における科学の濫用−』
『アナロジーの罠 −フランス現代思想批判−』
【2008年8月15日】 抜き打ち試験のパラドクス
  「呪いのゲームをプレイすると、一週間以内に死ぬ。」という言明は成功するだろうか?
  仮に本日(西暦2008年8月15日)にプレイしたとしよう。
  すると西暦2008年8月22日には死ぬことができなくなる。それは、「一週間以内に死ぬ」という言明には「プレイ後一週間のうち、いつ死ぬか分からない」という言明が含まれていることから、8月22日を迎えて死んでいない場合には8月22日に死ぬことが確定し、したがっていつ死ぬかということが判明するからにほかならない。
  ということは、いわば抜き打ち死の最終日は8月21日になる。
  ところが、8月21日においても、先述した8月22日と同様の事態に陥る。そしてこれを繰り返していけば、とうとう死ぬことができなくなる。
  したがって、「呪いのゲームをプレイすると、一週間以内に死ぬ。」という言明は偽であるという結論が得られるのである。
【2008年8月15日】 オースティンによる『BLEACH』論駁
(1) 一番隊隊長は、三番隊隊長の特定の行為について、「命令なしの単独行動」であると指摘した。(第10巻第82話)
(2) 一番隊隊長は、三番隊隊長の同一の行為について、「標的を取り逃がすという、隊長としてあるまじき失態」であると指摘した。(第10巻第82話)
(3) (1)と(2)より、一番隊隊長の言明からは、三番隊隊長には自身の行為の責任があるという考えが帰結する。
(4) 一番隊隊長は、三番隊隊長に対して、「(1)と(2)について弁明があるならば、弁明せよ」という趣旨の言明を行った。(第10巻第82話)
(5) 「弁解の弁」におけるJ.L.オースティンの分析によれば、弁明とは、ある行為の責任は認めるが、その行為が悪であることを是認しないことである。
(6) 責任があると述べているにもかかわらず、弁明を求めるという行為は、新しい情報が加わらないため、意義がないと言える。


↑弁解を求めた場合には、「……。以上より、○○には責任がある」→「弁解はあるか」→「いいえ、責任は私にあるので、弁解の余地はありません」/「〜であるため、私に責任はない」という流れをつくることができる。




※弁解……ある行為が悪であることは認めるが、その行為の責任を認めないか、認めるとしても一部しか認めないこと。
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:普通自動車免許学科における不誠実な教条主義の批判
  私は、普通自動車免許を10時間超過で取得して以来のペーパードライバー(厳密には、1度だけ助手席に乗ってもらって、指示をもらいながら小売店まで運転したことがある)で、ペーパードライバー歴は約1年7ヶ月になるが、「「だろう」運転ではなく、「かもしれない」運転をしなければならない」という教義について、教官に教えられてからというものずっと引っ掛かりを覚えている。
  なぜならば、その言明は、「「飛び出してこないだろう」といった考えを断罪し、「飛び出してくるかもしれない」と考えなければならない」ということなのであるが、「かもしれない」という表現は「可能性がある」という表現に置き換えられるため、「飛び出してくるかもしれない」は「飛び出してこないかもしれない」とセットになり、したがって「かもしれない」運転が「飛び出してこないかもしれない」をも含意せざるを得ないからにほかならない。
  それとは反対に、「飛び出してこないだろう」も「飛び出してくるだろう」とセットになっていることは言うまでもない。これらのことを考えるならば、先に挙げた標語はどうにも納得できないところがあるのである。
  このことに限らず、本人は「うまいことを言ったものだ」とでも思っているのかもしれないが、バカが考えたところで上のように論駁されるのであるから、省略などせずに、実直に標準的な教え方をしていればよいのだと思う。
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:翻訳の不確定性
  「お金で買えない価値がある。買える物は"MastarCard"で。」という言明があるが、これは誤りではないか。
  というのは、私は、あの言明の前に、あるいはあの言明とともに表現されている映像によって、「MasterCardを使用して各種の商品を購入した結果として、ある価値が醸成された」ということを暗に訴えかけていると受け取っているのであるが、これが広告主あるいは広告代理店の意図するところと一致しているかどうかはともかくとして、意味的に適切である場合、その価値というのはお金で買っていることになるためである。(購入の際には貨幣の取引は生じないが、後々銀行口座から貨幣が引き落とされることになる。)
  また、同じテレビ広告では「プライスレス」("priceless")という語が使用されている。これについての「価値がないということなのに云々」との突っ込みに対して、嬉々として、"priceless"は「非常に高価な」、「価格が付けられないほど貴重な」という意味であるという趣旨の、見下した返答をする者がYahoo知恵袋辺りにいるが、誰かこの種のアホに翻訳の不確定性テーゼを教えてやったらどうだ?(もっとも、"priceless"に突っ込みを入れる者もまた、標準的に採用されている翻訳法に則っているという点では、件の説教バカと同じ問題を抱えているのであるが。)
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:「私が言うことを10回繰り返してください」
  ◆質問についても鸚鵡返しをする場合
  α「チキン」
  ω「チキンチキンチキンチキンチキンチキンチキンチキンチキンチキン」
  α「鳥を英語で言うと?」
  ω「鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?鳥を英語で言うと?」


  ◆最初の段階で鸚鵡返しをする場合
  α「私が言うことを10回繰り返してください」
  ω「私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください、私が言う言葉を10回繰り返してください」


  なお、「私が次に言うことを10回繰り返してください」という言明が行われた場合には、「私が次に言うことを10回繰り返してください」という言明の次の言明のみを10回繰り返して、それ以降の言明にはすべて1回しか返答しないという手段を採用することができる。
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:自然主義と反自然主義の絡み合い
  一般に、性欲は動物的であり、性欲の赴くままに行動することもまた動物的であるとされている。そして、性欲を忌避するとき、それは性欲の赴くままに行動すること、したがって動物的であることを忌避しているというのが一般的な了解である。ここでは、動物的なことは自然なことと解されていることから、性欲を忌避することは反自然主義の立場に立脚していることになる。
  ところが、人間にとっては性欲を制御しようとすることが自然なことであるという可能性はないであろうか?
  一般に、人間は、自身が他の動物とは本質において異なると考えているが、これが単なる信念ではなく、本当のことであるとすれば、人間にとっては性欲を制御することが自然なことであるという可能性は十分にある。したがって、反自然主義を維持したければ、蓋然的に性欲の赴くままに行動することが推奨されなければならない可能性が出てくるのである。


  上では性欲に焦点を当てたが、より一般化した場合でも、自然主義と反自然主義の関係は私には不思議である。たとえば、「生きる意味」について、一見、無限後退か独断論の隘路が待ち受けている(実在論的に根拠づけようとする場合、たとえば神や世界など、現在のみならず、過去、さらには未来を含めた人間を包括する存在を要する。しかしながら、こうした方向は、それの根拠づけにそれを包括する別の何かを求め続けるという「無限後退」〔無限遡行〕に陥るか、それを拒絶するならば「独断」に陥らざるを得ないという隘路である。)というのが自然主義で、実存主義的な回答の仕方(これは、ただ個人的な価値観において個人的解答を与えようとし、得られた答えを他者に押しつけずに、「私にとっては〜」という語り方をするというものである。)が反自然主義のように思えるが、かつては(生きる意味などということについて)ごちゃごちゃと=実存主義的に考えなかったが、変化(私は進化という語を嫌っており、変化という語を好んでいる。)の結果、現在ではごちゃごちゃと考えるようになったという説明もできそうな感じがし、その場合、反自然主義が自然主義の結果であると見るのが正しいと考えられるのである。
  あるいは、進化生物学的な事実〔「〜である」〕を考えなしに規範/価値〔〜べし〕に読み換える仕方が流行しているが、一般的には、前者は自然主義的であり、後者は反自然主義的であると見なされているといったように、互いに異質なものとされている。しかし、たとえばサール(John Rogers Searle)は、約束という語についての彼の分析が正しければ自然主義と反自然主義の統合に成功していることになり、ここにも両者の絡み合いを見て取ることができる。




…………


◆反自然主義者「男は性欲の塊だから醜い」

◇自然主義者「「男は性欲の塊」であるというのは進化論的に事実であり、それを醜いと感じるのはただ受け手の問題である」

◎???「「性欲を醜い」と感じることもまた進化の、現段階での結果である」
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:厳罰主義に対する疑義
  あるテレビ番組において、「悪には厳罰主義で臨め」という言明を行っていた人間がいる。彼は、道路交通法の厳罰化によって同法の違反数が減少したということを例にとって、厳罰主義の効用を説いたのであった。
  しかし、これはあまりにも問題を単純化しているのではないか。
  まず、ここでの悪を法律を基準とした悪、すなわち違法行為と規定し、法的悪と表現し直そう。
  次に、法的悪に対する態度を2つに区分する必要がある。1つは法的悪を忌避する傾向にある種類の人間で、もう1つは法的悪を肯定する、あるいは法的悪という概念を持たない種類の人間である。
  そして、前者の人びとは、ある行為をどの程度してはならないかについて、悪の程度を基準として2つ以上に分類している。たとえば、ゴミを道路に捨てることや冒頭の道路交通法違反などは悪の程度がより低いと考えており、反対に暴行や殺人などは悪の程度がより高いと考えている。
  こうして、法的悪を行ったときの態度を大きく3つに分類することができる。すなわち、「法的悪を忌避する傾向にあり、それが法的悪であることを認識しているが、その程度が低いと考えるために、その行為に対して比較的無頓着」なパターン、「法的悪を忌避する傾向にあり、それが法的悪であることを認識しており、かつその程度が高いと考えるために、その行為の重大性を強く意識している」というパターン、「そもそも法的悪をどうでもいいと考えているために、その行為に問題性はないとする」というパターンがそれである。
  このうち、第1のパターンの場合にはたしかに厳罰主義を採用することによって状況は改善されると思われるが、第2と第3のパターンについては因果関係を見て取ることはできないであろう。それどころか強い相関があると言えるかどうかも怪しい。
  なぜならば、第2のパターンの場合には、最初から強く意識してその行為を回避していることから、それを遂行するときには覚悟をしているか、正常な判断が下せないような心理状態にあると推測することができるためであり、第3のパターンの場合には、そもそも法など無用と考えているのであるから、罰についても比較的無頓着であると推測されるためである。
  後者の場合、効用といえば、その人の生涯における再犯あるいは当該犯罪とは別の犯罪の総数を物理的に低減させられるぐらいであろう。すなわち、厳罰主義は、根源的な解決をなし得ず、多数者によってそれほど大したことがないと認識されている違法行為に対してしか効果がないと思われる。
【2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:ゆとり教育批判の批判
  私は、ゆとり教育について、(1)実施期間から考えて成果を提出できる状況ではない、(2)ゆとり教育に反対する人びとが協力的でなく、場合によっては妨害している可能性がある(多数派が必死になって足を引っ張っているという事態を超克するのはきわめて困難であると思われる。これに対しては「失敗したから反対するのである」という反論があるが、初めから偏見、ここでは否定的な態度があったという可能性は拭い去れない)、(3)政策段階が正しいとしても、それ以降、すなわち戦略、戦術、実施の各段階において有効策を講じることができていないのではないかと推測している。
  また、日本国内における通時的な、あるいは各国間の通時的な教育水準の比較において、現在の日本国のそれが低下してきているということが正当化されるものであると仮定しても(誤った調査の方法によってそのような結論が得られているということも考えられるため、その調査に根拠を置くならば、検証は必要である)、ただゆとり教育のみに要因を負担させることができるのかという疑問もある。
  さらに、何が教育を評価する指標として正しいか(ゆとり教育の弊害を語る際に無批判に採用している前提に独断はないか)、過去を基準にする仕方は正しいかということも問題である。


  なお、「これがゆとり教育世代か」という言葉を吐く者は対象を蔑視する際にいわゆる常識というものを基準に判断することがあるが、これはゆとり教育とは関係がない。(なお、常識の価値を論証なしに絶対化することにも問題がある)さらに、実践上の問題として、「ゆとり教育世代」言説を弄する者にそうする資格〔学力、常識〕があるのか(2ちゃんねる的表現を用いるならば、ブーメランになっているのではないか)、あるとしてそれはいつの時代にもいると思われる上位集団に属しているからで、そもそも比較する対象を誤っているのではないかということになる。(共時的にも天才や秀才と凡人やそれよりも下位とは差があるのだから、通時的観点から前者と後者の差があることを言い立てたところで無意味である。)
2008年8月15日】 旧時代の遺物の発掘:共生志向の欺瞞
  共生志向あるいは共感志向は、他者=異質な存在を排除するという前提がなければ成立しない。そこには、最初から排除を見て取ることができるのである。
  たとえば、イスラムに対する嫌悪感や忌避感が漂っているなかで、イスラム文化を理解しようと呼びかける者はその好例である。彼らは、「理解」しようとしているのではなく、「取り込もう」としているというのが実情である。
  すなわち、共生あるいは共感を志向する者は、見かけ上は自らが属する領域の外にある存在を受容しているが、実際には、自らの領域を基準としたときに異質と映るものを正常なもの=自らの領域と同質なものに変換することによって受容している、あるいは対象を恣意的に分断したうえで、その一部を受容している〔理解する努力をした結果、理解することに成功したものは受け入れるが、そうでないものは排除している〕に過ぎず、したがって結局は最初から不寛容な人びとと大差ない。むしろ、社会的な批判を回避し得ている点で性質が悪い。(むろん、受け手、すなわち共生志向を批判する必要はないという信念を持っている者にも問題はある。)
  こうしたことから分かるように、グローバリズムは原理的にムラ社会と同質である。異なるのは排除する時点のみである。
  そこで、共生=共感志向では、その原理を機能しないようにする、つまりムラのソトをつくらないようにすることを目指す。これは、実際にソトがない(という妄想を共有している)ならばムラもないということになるというプラグマティックな論法である。
  しかし、原理的にはソトは付いて回るため、共生志向の世界観は彼らが批判するムラ社会と同質なのである。たとえ、共生=共感を志向する者の望みが完全に実現したとしても、排除の原理は、排除する者が存在しないために機能していないだけで、成立はしているのである。
  なぜ、こうしたことを個人の信念において正しいとするだけでなく、それが正しいことを絶対化することができると考える者が、道徳的規範に依拠したり、他者を自己中心的であるとして批判することができるのであろうか。
2008年8月15日】 平等の実現可能性
  「機会の平等は善い平等であるが、結果の平等は悪い平等である。」という趣旨の言明があるが、私の感覚では機会の平等が実現し得るとは到底思えない。そのように思う理由は以下に示すとおりである。


  ◆平等の条件
  (a) 実在論が正しい場合→実際に容貌や性格や能力などのすべての性質が人類間で同一であること
  (b) 反実在論が正しい場合→容貌や性格や能力などのすべての性質が同一であると各人が各人について(認識せねばならないという意識ならびに無意識を抜きにして)認識すること
  (c) 第3の可能性→実在論的見解か反実在論的見解かにかかわらず、各人が各人に対して(等しく接しなければならないという意識ならびに無意識を抜きにして)等しく接すること


  なお、上で実在論が正しい場合には、同一とは関係ではないという点を考慮するならば、人類が同一であるためには人類が1人でなければならないということになるが、人類は1人で構成されているのではないため、人間社会で平等は実現しないということが帰結するのである。




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